■ 緊急基金による車いす作製プロジェクト報告 その2 【最終版】 2007年 8月 14日
■緊急基金による車いす作製プロジェクト報告 その2
■緊急基金による車いす作製プロジェクト報告
■地震救援活動報告
■ 地震緊急救援基金ご協力へのお礼とお願い
■12月 パキスタン報告会の様子
■12月 パキスタン報告会のお知らせ
■11月20日のパキスタン報告会延期のお知らせ
■緊急救援基金報告 送金状況 2006年 12月 12日
■ パキスタン報告
2005/11/24 シャフィック(ライフILセンター)発信
2005/11/05 シャフィック(ライフILセンター)発信
2005/10/31 シャフィック(ライフILセンター)発信
2005/10/25 シャフィック(ライフILセンター)発信
2005/10/13 21:00 シャフィック(ライフILセンター)発信
パキスタン 地震緊急救援基金への
ご協力をお願いします
2005年10月12日
10月8日パキスタン北部を襲った地震の被害は予想を超えて広がっているようです。パキスタンのライフILセンターでは所長のシャフィックなど職員が毛布や救援物資を持って、一昨日より現地に入っています。
一昨夜、シャフィックはトラックで救援物資を12時間かけて現地の山間部まで持ちこんで、今日3時にイスラマバードに帰還しました。携帯電話でのやりとりでは彼が「Oh
my god! Oh my god!」と繰り返す声がきかれたようです。今日の電話のやりとりによると、現地では、子供の死体を犬が食べている情景をあちこちで見かけたそうです。地震による倒壊で脊髄損傷になって新たな障害者が大勢生まれています。生き延びることに全力が注がれており、現在、中古の毛布、テント、食料品などが緊急に求められています。シャフィックはこれからラフォールに帰り、必要とされる資材を集めてその足でまた現地入りする予定です。シャフィックからの続報は写真入りではいる予定です。 DPIアジア太平洋ブロックでも募金活動を開始することになっています。
現地での支援窓口はシャフィックの運営するライフILセンターとし、日本側の支援体制はJILを事務局としDPIが協力するというかたちをとります。最優先の課題として、食料品やテントを買うための現金が必要です。 そのための振込口座をつくりましたので、各団体におかれましては会員にメールや会報などで協力の呼びかけをお願いいたします。目標金額を100万円と設定して募金活動を行います。援助物資の送付については、パキスタンの事情により時間がかかる等の理由から、とりあえず当面は資金の援助に絞って活動することとしました。どうしても送りたい物資があるということであれば、DPIかJIL事務局まで御相談下さいませ。
支援金は下記の口座にお振り込み下さい。
多摩信用金庫 京王八王子支店 普通 0217827
パキスタン地震緊急救援基金 代表 中西正司
*2006年1月10日より、『多摩信用中央金庫』→『多摩信用金庫』 と変更になりました
詳しい内容のお問い合わせは下記にお願いします。
【連絡先】 DPI日本会議 三澤 了
〒101-0054 東京都千代田区神田錦町3-11-8 武蔵野ビル5F
TEL:03-5282-3730 FAX:03-5282-0017
【事務局】 全国自立生活センター協議会(JIL)
〒192-0046 東京都八王子市明神町4-11-11 シルクヒルズ大塚1F
TEL:0426-60-7747 FAX:0426-60-7746
* なるべく早く第1回送金をしたいと思いますので、それまでに基金に振り込みの可能な個人・団体は是非ともお振り込み願います。緊急救援金は早ければ早いほど効果があります。各団体のご協力・支援をお願いいたします。
■ 12月 パキスタン報告会のお知らせ
パキスタン地震緊急救援基金報告会
10月8日に発生したパキスタン北部を襲った地震。私たちは、被災直後から障害を持つ被災者の救援活動を開始した、パキスタンのライフケアILセンター(障害者団体)を通じて物資・240万円以上の義援金を送るなどの支援をしてきました。日本国内で支援に協力してくださった皆様に対して、11月20日にライフケアILセンターの所長であるシャフィクさんが来日して報告会を行う予定でしたが、現地での支援を優先したいということで延期されていました。その報告会を行うことが決定しました。
被災から2ヶ月、現地では、地震被害によって新たに障害を持つことになってしまった人たちが増えているということです。今後のサポートがますます重要になってくるところだと思います。お時間のある方はぜひ、足をお運びください。
新宿 名古屋 西宮
新宿
■日時 2005年12月7日(水)
14:00〜16:00(13:30より受付)
■会場 新宿区立障害者福祉センター 第一・第二会議室
新宿区戸山1-22-2
【TEL】03-3232-3711 【FAX】03-3232-3344
<問合せ先>
DPI日本会議
TEL:03-5282-3730 FAX:03-5282-0017
全国自立生活センター協議会(JIL)
TEL:0426-60-7747 FAX:0426-60-7746
* ちらしはこちら から
名古屋
■日時 2005年12月9日(金)
14:00〜15:30(13:30開場)
■会場 カトリック恵方町教会ホール
名古屋市昭和区恵方町2-15
(AJU自立の家 隣り)
<問合せ先>
AJU自立の家
TEL:052-841-5554 FAX:052-841-2221
* 8日(木)pm16:30名古屋市栄にて街頭募金(予定)
西宮
■日時 2005年10日(土)14:00〜16:30
■会場 西宮市役所東館8階ホール
<問合せ先>
メインストリーム協会
TEL;0798-34-4955 FAX:0798-34-4604
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■ 11月20日のパキスタン報告会延期のお知らせ
11月20日のパキスタン報告会
延期のお知らせ
関係者の皆様
いつもお世話になっております。
パキスタン救援基金へのご協力ありがとうございます。
先日、パキスタン救援基金の報告会を11月20日に行うご案内をさせていただいたのですが11/14から来日する予定だったライフ自立生活センターのシャフィックさんが今回来日しないことになり、報告会も延期とさせていただきたいと思います。
すでにご参加のご連絡をいただいている方もある状況での急な変更となってしまい申し訳ありません。
「地震で家を失い雪の寒さの中で凍えている人や、脊損になって困っている障害者などを助けるのが優先だ」と、迷った末に本人が決めたようです。昨夜、シャフィクから届いたメールを下記に掲載します。
皆さまにはご迷惑をおかけしましたが「自分たちの仲間を大切にする」彼の気持を尊重したいと思います。「12月には救援に行きたくても積雪が多くて行けなくなり、時間にも余裕ができるだろうから、その時には直ぐにも日本に行き、皆さんに支援のお礼と今回のお詫びをしたい。」と言っていました。
12月の来日が決まりましたら再度報告会を開催し基金の使途や活動状況について皆様にご報告させていただきたいと思います。
ご迷惑をおかけしますが、今後ともよろしくお願い致します。
(以下、シャフィックからのメール)
すいません。
日本に行くことができなくなりました。
このことで、たくさんの人に私の悪い印象を与えてしまいました。
今日、私たちは、地震によって脊椎損傷になった14人の障害者を見つけました。
そして彼らは何のケアもされずに取り残されていました。
私たちは、彼らのケアをしなくてはなりません。
私は、働くためにここに残り、日本に行かないことを決めました。
約束を破ってしまいました。本当にすいません。
これは、14人の新しい人生に関わることです。
私には責任があります。
雪はすでに、北部地域で降り始めています。
今月15日、私たちはカシミールでモバイルCIL(巡回CIL)をはじめます。
その地域は、急速に寒くなってきています。
摂氏2℃の地域で何が私たちに起こるか分かりません。
私たちは、テントに泊まらなくてはいけません。
でも私たちは、行かなくてはいけないと思っています。
私は、Mazafarabadで200人以上の障害者を救ったと聞いています。
私は、自分の仲間を救うためにベストを尽くしたいと思います。
私も一方では、日本に行って友達に会って、たくさんの興味のあることをディスカッションしたりしたいと思っています。
でも一方では、死にかけている障害者に私の全てのエネルギーを捧げなくてはいけないと思っています。
状況は、危険で、もしかしたら私は死ぬかもしれません。でも今これは、必要とされていることです。
私は、被災者がたいへんな状況のに中途半端な関わりになりたくないです。
私たちのために皆さんがして下さったことは、全てすばらしい事だとわかっています。
なぜならあなたたちのおかげで、私たちは活動できるのです。
私を本当に理解できるのは、あなたたちだけだと思います。
すいません。本当にごめんなさい。
ばかなシャフィックより
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■ 地震緊急救援基金ご協力へのお礼とお願い
地震緊急救援基金ご協力へのお礼とお願い
2006年2月17日
2005年10月におきましたパキスタン地震につきましては、救援基金を呼びかけさせていただきましたところ、たくさんの方々かたからのご厚意をいただきたいへん感謝いたしております。
ご協力いただきました皆様お一人お一人にお礼を申し上げたいところですが銀行では、個人情報保護の観点から振込み名義以外の情報が、私どもには非通知となっており、お礼や活動状況の報告ができないという状況です。
今後も地震救援基金の適正かつ有効な活用を行い随時、当会のホームページを通して報告をさせていただきたいと思います。
この地震救援基金にご協力いただいた方をご存知の方は、ぜひこのホームページをお知らせいただけますようお願いいたします。
現地では、現在、食料やテントなど緊急救援物資の配布などの取り組みの段階を過ぎ、今後は、地震による負傷者や障害を持った人たちへのの長期的な支援が必要となってきております。
現在、現地の支援団体であるマイルストンから2005年12月末までの事業報告と会計報告をあげてもらい、皆様からいただいた救援基金をどのように有効に使うことができるか、今後の事業計画について詰めているところです。
近日中にホームページなどを通じで現地の活動状況、会計報告をさせていただきたいと思っております。
領収書が、ご入用の方は、直接事務局 jil@d1.dion.ne.jp まで(〒、住所、お名前、お振込み日を)ご連絡ください。
ご支援、ご協力いただきました皆様に深く感謝いたします。
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■緊急救援基金報告
緊急救援基金 経過報告
2006年5月30日
現在、パキスタンの被災地では、まだまだ復興に向けた支援が必要とされています。
現地ではマイルストンとライフ自立生活センターの2団体が支援活動を継続しており、
彼らの被災地支援プロジェクトに対し、今年度、国際機関からの助成が予定されています。
現地の2団体とJILは、連携をとりながらプロジェクトの計画をすすめています。
どの支援の部分に、それぞれ助成金とJIL地震基金を充てるか、重複する部分がないように調整中です。
今年度の10月まで被災地支援プロジェクトへの助成金が入らないことが明らかになっているため、今回は、未だに圧倒的に不足している車椅子の作成費用に使途を限定し、50万円送金いたしました。
報告はこちら
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(1)合計額 2006/3/10(金)現在
(2)送金状況 *送金額は振込み時の手数料を含みます
送金日
送金額
第11回送金
2006年12月12日(火)
¥1,106,500
第10回送金
2006年9月27日(水)
¥1,006,500
第9回送金
2006年8月31日(木)
¥1, 006,500
第8回送金
2006年5月30日(火)
¥506,500
第7回送金
11月14日 (月)
¥458,604
第6回送金
10月 31日 (月)
¥284,547
第5回送金
10月 26日 (水)
¥150,000
第4回送金
10月 21日 (金)
¥277,000
第3回送金
10月 19日 (水)
¥461,991
第2回送金
10月 17日 (月)
¥717,561
第1回送金
10月 14日 (金)
¥116,000
ご協力いただいた皆様へ心よりお礼申し上げます
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■ パキスタン報告
●11/24 シャフィック(ライフILセンター)発信
バラコット訪問報告
Azad Kashmirやパキスタン北部と別の地域を訪問後、シャフィック氏やアシャール氏、アリハッサン氏、ハミッド氏、土佐氏、ジャスミン氏、ザヒッド氏、リズワン氏を含むマイルストンのメンバーでバラコットを訪問しました。障害者が自分のためにも社会のためにも、よりよい生活ができるよう研修を受け、車椅子を手に入れられるように、障害者の状況を調べに行きました。
ラホールからバラコットへ夜間に移動を始めました。自分たちのための食料やストーブ、卵、パン、バターなどの日用品を持っていきました。そこには滞在できる家もホテルもなく、人々はみな家がなく、大地震による被害で建物は全て倒壊し、電気や下水道のシステムは全く機能していませんでした。
まずイスラマバードへ着き、現地で配布するためにテントを10購入しました。それから、いまや墓場と化したバラコットへ向かいました。
6時間かけてバラコットへ移動すると、1人の子どもがふらふらとあちこち歩き回っていました。マイルストンのメンバーがどうしたのかたずねてみると、その子は話しました。「地震のせいで、ぼくの生活はめちゃくちゃになった。妹と弟とお母さんが死んでしまった。地震がおきたとき、ぼくは学校にいて、あっという間に建物が倒れて、友だちがたくさん死んだ。家に帰りついたら、そこはレンガだらけでむちゃくちゃだった。お母さんのひざで朝ごはんを食べた家は、影もかたちもなくなってた。そして、お母さんと妹と弟は、がれきに埋もれてた。もうどこにも行き場がないよ。」
この無垢な子どもの状況に、マイルストンのメンバーは涙を流しました。この少年を慰め、どんな状況でも生きていく勇気を与えました。
それから、一同は破壊された地、バラコットへ向かいました。
ここが、にぎやかで国内外の旅行者に美しいリゾート地で有名だったバラコットだなんて、非常に悲しいことに、誰も信じることができませんでした。バラコットは山々に囲まれ、特に川を流れる水音は人々を魅了し、その音はどんな音楽にも劣らないといえました。しかし、今や目を疑うばかりに美しい渓谷は墓地となり、壊れた家屋やホテルだらけの荒地となり、にぎやかな市場も全てなくなってしまいました。
生き延びた人々は、心理的トラウマから立ち直っていないため、涙を流すことすらできませんでした。みな、家を、愛する人を、仕事を、喪失感自体を失っていたのです。
マイルストンのメンバーはまっすぐ軍隊が駐在しているところへ行きました。パキスタンの軍隊は現地でよく活動しています。他のたくさんの団体がキャンプをはり、救援物資を配っていました。マイルストンのメンバーは、訪問の目的を軍へ説明しました。軍の人は、国内にこのような障害者の団体があって障害者を助けるためにやってきたということを知って少し驚きました。現地では、みなテントで生活しています。軍隊と他の団体はテント村をつくっいて、あるアラブの会社が水を供給しています。軍の兵士がマイルストンのメンバーにテントをはることを許可してくれました。他の人たちは、障害者がここまでやってきているのを見て驚いていました。つぎつぎに人々は訪れ、嘆きと哀しみを分かち合いました。人々は深い喪失感に襲われていました。直面した地震による破壊と喪失が表情にハッキリとあらわれていました。マイルストンのメンバーは悲しみを共有し、喪失感を受け入れ、どんな状況でも生きていくよう元気づけました。
夜になり、吹き抜けの谷で冷たい風が吹きすさぶ極寒の中、食事をつくりました。ジャガイモと卵をゆで、みなでわけあって食べました。食事のあと、軍の人がマイルストンのメンバーを軍のキャンプへ招待しました。ミーティングをひらき、マイルストンのメンバーは、現地での軍隊の仕事と新たに障害をもった人たちのことについて尋ねました。今回の地震でたくさんの人が障害をもち、ほとんどはイスラマバードやRawalpindiやラホールへ移され、ここにはほとんどいないかもしれないが捜索しなくてはならないと軍の人は話しました。マイルストンメンバーは兵士たちと夜を過ごし、情報を得、このあたりでどのように障害者をさがすことができるかを計画しました。ディスカッションをしたあと、自分たちのテントへ戻って眠りました。
朝早く起床し、凍るように冷たい川の水で顔を洗いました。そして、テント村全体をまわり、自立生活の知識と情報を提供しました。その間に、サービスがないため死体のように横たわった障害のある人々と出会いました。障害についての何の情報もなく、自信をもって新しい生活をすることを誰も教える人はいませんでした。障害のことや自立生活の概念について教えてくれたマイルストンのメンバーは、彼らにとって天使といっても過言ではない存在でした。障害者にはNISE(国立特殊教育施設)やAl-Shifa病院へ行くように教え、一日中、現地の人のピアカウンセリングとエンパワメントに忙しくしていました。
Shahid将校がマイルストンメンバーを夜のミーティングに招きました。ここでは、作業を分担し終了した作業を確認し、翌日の予定を話し合うために、毎日午後7時にすべての団体が参加してミーティングをひらくことを説明しました。メンバーはミーティングに参加し、自己紹介をしたあと、障害者をみつけたら、いつでもいいから教えてほしいと話しました。
情報共有をしたあと、自分たちなりの役割があり、ここでできることがあるという自信を少しもち、テントへ戻りました。食事をつくり、打ち震えるような寒さの中、再びテントで眠りました。
午前中、障害者の状況を知るためにMuzaffarabadを訪れることをきめました。午後にGarhi
Habib-ullah市へ到着しました。家々は完全に破壊され、市場は壊滅状態で、非常に多くの人が命を落とし、怪我をしました。みな地震によって家族や財産を失い、手や脚を失くした人もいれば、脊損のように重傷を負った人もいる、と現地の人は言いました。重傷の人はイスラマバードとRawalpindiの病院へ運ばれたことがわかりました。
それからMuzaffarabad市へ着きました。ここもまた大きな被害にあっていて、バラコットと同じ状況でした。人々は家がなく、たくさんの障害者がいました。テントで生活をしていて、テントの中で悲しみをわかち合いました。たくさんの人が脊損になり、他の障害者と一緒にイスラマバードへ運ばれたことが、話をする中でわかりました。背骨を傷め、医者から動かず休むように言われたの女性が数人いました。マイルストンのメンバーは、褥瘡について教え、背骨に気をつけるよう教えました。
Muzaffarabad市で得た情報からイスラマバードへ行くことに決め、少しの時間も無駄にすることなく夕方には出発しました。夜になってイスラマバードへたどり着き、障害者と会うために別のキャンプの人たちに連絡をとりました。翌朝早く、キャンプへ訪問を始めました。まず、市場へ行って、NISE(国立特殊教育施設)にいる子どもたちのために果物を買いました。
この救援キャンプはSusan Hirshbergがまとめていました。メンバーはいろいろな状態の子どもたちと会いました。これまでの3回の訪問で車イスや杖、日用品を子どもたちに配っていたので、そこにいた人たちは、みなマイルストンのメンバーに気付きました。
Hirshberg氏は、近々Attockで設置する新しい救援キャンプに、ピアカウンセリングと自立生活の支援が必要だと言いました。それから、メンバーは地元の人たちで運営している救援キャンプを訪ねました。そこでは被災者と会い、ショックをとりのぞき、自信をもって自立した生活ができるようエンパワーしました。被災者に安心できる環境を提供している現地での運営努力をメンバーは立派だと思いました。
キャンプを訪ねた後、メロディ救援キャンプにたくさんの脊損の人たちが収容されているという話を聞き、少しの時間も無駄にせず移動し、脊損の人たちと会いました。みな、脊損についての自覚と知識がないため、ひどい状態でした。
メンバーは、そこにいた障害者たちと障害について役立つ知識や情報を伝えました。そして、障害を受け入れ、自信をもって生活し、自分たちの権利のためにたたかうよう励ましました。
脊損がどんなものか話を聞いてから、新しく障害をもった人たちはとてもリラックスしました。彼らが一番困っていたのはトイレ問題でした。ピアカウンセリングを通してエンパワーし、それぞれの出身地に戻ったとき差別のない社会をつくるためたたかうよう刺激しました。褥瘡にならないよう、手術用の手袋をいくつか購入し手袋の中を空気でいっぱいにし、脊損の人たちの足の下におきました。
夜になり、ラホールのAl-Hijaz病院で治療を受けている脊損の人たち15人の対応をするため、戻ることを決めました。
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●11/5 シャフィック(ライフILセンター)発信
2005年10月8日の地震は、パキスタン全土、特にAzad
Kashimir と北部地域を破壊しました。たくさんの美しい緑の渓谷は、墓地と化しました。
家、学校、公共の建物は跡形もなくなりました。ほとんどの人々は死に、そして生き残った人々も毎日死んでいっています。ある者は頚損になり、ある者は脚や手を失いました。そして多くの人々は家族を失いました。
10月11日に、マイルストンは、すでに壊滅したAzad
Kashmir を訪れ、必要な日用品や薬を配りました。2回目の訪問では、Abbotabad,
Thandyani, Pattan, Kalan , Pattan Khurd 村を含む北部地域
を訪問しました。そして日用品や薬を被災者に配布しました。3回目の訪問は、新たに障害者になった子供、女性、男性を訪問してほしいと世界銀行からマイルストンのメンバーに連絡があり、イスラマバードへ向かいました。10月25日にマイルストンのメンバー(Shafiq,
Akmal, Ashar)は、特別教 育国立研究所を訪問し、地震で 新たに障害をもった治療中の子どもや大人に会いました。マイルストンメンバーは、被災者を元気づけエンパワーしました。そして人生と向かい合うことと、これからの人生がどれだけたいへんなものになるかも分からなけれども受け入れることを教えました。
世界銀行のテクニカルアドバイザーSusanは、マイルストンのメンバーに5つの車いすとクラッチを緊急に必要とする被災者に用意するよう頼みました。なぜなら研究所にある車いすは被災者には合わなかったからです。
マイルストンのメンバーは、家をなくした人たちを助けるという思いで一杯になっていました。彼らは、よりよい人生への希望も夢も全て失い、打ち砕かれていました。目はあるけれども虚空を見つめ、脚はあるけれども進むべき道を失くし、行くあてもなく、悩みを打ち明ける相手もいません。
被災者を助けるために、ラホールに戻り、脚を失った被災者に配布するために5台の車いすとクラッチを準備しました。イスラマバードからの1名を含む6名のメンバー(Mr.
Asim, Mr. Ashar, Mr. At if, Mr. Hamid, Ms.
Fahmina, Mr. Zahid)は、時間を無駄にすることなく、被災した人々の人生に新たな命を吹き込むべく使命をもって、夜12時に出発しました。
空気は冷えていましたが、私たちの思いは熱かったのです。
メンバーは被災者への車椅子の配布とエンパワーのために早朝にイスラマバードに到着し、特別教育国立研究所を訪問しました。最初に医者とスーザンに会い、そして被災者に会いました。被災者は、障害者が簡単に動けることを少しも想像できなかったので、ライフストンのメンバーを見て、とても勇気づけられました。ラフォーレからエンパワーのためにやってきたことを知ったとき、彼らは人生に新たな生命が吹き込まれたようでした。
メンバーは、被災者一人一人を訪問し、エンパワーし、障害を受容して生きてゆくよう教えました。人生は脚や手が全てではない、人生とは生きてこそだ、こういった言葉にそこにいた人々たち微笑み、相談相手になってくれたことをメンバーへ感謝しました。
そして、メンバーは車いすを必要としている人のところに行きました。彼らは、車いすは持っていましたが身体には合わず、簡単には使えなかったため、車いすよりもベッドや母親の膝の上のほうがましだと思っていました。
マイルストンメンバーは、主に子供の被災者に車いすを配りました。使いやすい車イスは、おもちゃのように簡単に使うことができました。車いすをつかうことで、生き生きとした表情になり、笑顔を取り戻しました。自由に動けるように、まるで誰かが子どもたちに魔法をかけたようでした。今や、子供たちは自由に空を飛びまわる鳥のようでした。
子どもたちの笑顔をみて、メンバーは救援活動を続けることに対して熱心さが増し、なんとなく満たされた気持ちになりました。車いすを配布したあとに、脊損になった16歳の少女が特別教育国立研究所の隣にある
Al-Shifa国際病院
に入院していることがわかりました。マイルストンのメンバーは病院へ急ぎ、この少女と会いました。
彼女の状況はまったくひどいものでした。食べることも話すこともやめてしまっていました。まるで死人のように生きることに全く興味を失ってしまっています、と母親は言いました。しかし、マイルストンのメンバーが、生きていくことに役立つ経験と知識を教えると、彼女の気持ちはずっと楽になりました。日常生活についての知識や情報、例えばトイレやお風呂、食事の方法など、誰も教えなかった基本的な情報を教えました。聞いているうちに、彼女の表情はいきいきとしてきて、人生を取り戻しているようでした。そして、ちゃんと食事をし、他の人たちのように生きることを約束しました。彼女は脊損という障害とともに生きるという現実を受け入れつつありました。
Al-Shifa国際病院にいた医師に、脊損になった女性がこの病院にあと4人いるので、彼女たちにも是非会ってほしいと言われ、すぐに会いに行きました。皆、さっきの少女と同じ不安を抱えていました。食事をすることへも生きることへも興味がありませんでした。そして、脊髄損傷の知識もまったくありませんでした。しかし、マイルストンのメンバーが脊損について教えると問題は解決されました。また、経験を共有することで、それぞれが自分らしく生きることができるようになりました。
その場にいた1人の女性の変化は、とても励まされるものでした。最初、マイルストンのメンバーが部屋に入ったとき、彼女は泣いていました。ところが、話を聞き、マイルストンのメンバーが車いすで移動し仕事をしている様子をみるうちに、微笑んで「今、私は幸せです。人生へ向かい合う準備ができました。」と言いました。これは奇跡としか言いようがありません。濡れた目が微笑へと変わったこの瞬間を決して忘れることはないでしょう。そのときIftarの時間になったので、内務省とCapital
Development Authorityが病院としてつかっているJinnahスタジアムを訪れることにし、Iftarのためにホテルへ移動しました。
スタジアムで会った医師がとても協力的で、大変勇気づけられました。訪問の目的を告げると、マイルストンの活動にとても感銘を受け、賞賛してくれました。医師には42年間
脊損の母親がいて、自立生活について
深い知識と理解があり、被災者を訪問することを許可してくれました。被災者は自分たちに役立つ知識をとても喜びました。
地震の時、子どもたちは学校でどんなふうだったか経験を語り合いました。学校から出てくることができなかったり、重たい瓦礫の下に閉じ込められ2日後に発見され救出された、などです。多くの子どもたちは脚や手を失くしていました。ほとんどの子が頭を怪我していて、ある小さな女の子は話すことができなくなっていました。マイルストンのメンバーは子どもたち一人一人に対応し、笑顔を取り戻しました。そして、どんな状況にでも向き合えるよう勇気づけました。
頭を怪我した女の子の誕生日を歌を歌ってお祝いしました。たくさんの親は悲しみを共有し合いました。マイルストンのメンバーは話を聞き、必要な知識を伝えました。皆、とてもリラックスし、マイルストンのメンバーとたくさんの時間を過ごし、知識に感謝し、どんな社会の態度にも恐れず自立生活を送ることを約束しました。そして、強い心を持ち、笑顔で車いすの生活することを約束しました。全て神によって創造され、全てはうまくできているからです。これが私たちの努力の成果です。そして、次のステップへの始まりです。
一番最初のステップはシェルターや食料や薬の支援を短期間行ったことです。
次のステップは長期的になります。リハビリするよう働きかけること、つまり今まで私たちが行ってきた活動です。
被災地のカシミールへ7回訪問し、脊損者に会いにイスラマバードの複数の病院や野戦病院へ8回訪問しました。
先週から雪が降り始め、この11月はもっとも忙しい月になります。
ここで、非常に緊急で重要な問題があります。今までに、地震が起こる前から障害があり、自力で病院やリハビリテーションセンターへたどり着いた人に、私たちはまだ2人しか出会っていません。彼ら以外の、もともと障害のあった人たちは今どこにいるのでしょう。
みな死んでしまったのでしょうか?
山岳地帯の壊れた家の中で、いまだに助けを待っているのでしょうか?
いまだに家族が隠しているのでしょうか?
もしくは、生き延びて家族が世話をしているのでしょうか?しかし、もし生き延びていたとしても、何百万という人々が家をなくしテントで暮らしているのに障害者が野外のテントにいないということは……どうしてでしょう?壊れた家の中で、いまだに死を待っているのでしょうか?
こういった懸念を明らかにしていくつもりです。
新たに障害を持った人のためにもっともっと車いすがあれば、と心から思います。それぞれが出身地へ戻ったとき、政府へ建物のバリアフリー化を求めたり、統合教育を求めるデモをすることができるからです。私たちはこの大きすぎる目標のちょっとしたベースづくりをしたいと思っています。そして、不利な立場から有利なものを獲得できると信じています。
私たちが、どうしてこういう信念をもつことができるのでしょうか?それは皆さんの大きな援助と努力があるからです。皆さんの障害者へ対する暖かな姿勢。皆さんが私たちへ費やしてくれたたくさんの時間と送ってくれた尊いお金。
私には、個人的に、皆さんからの寄付に対する報告と問い合わせへの責任があり、皆さんからの信頼への責任があります。本当にありがとうございます。
シャフィック
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●10/31 シャフィック(ライフILセンター)発信
親愛なる友人の皆様へ
現地では、より迅速な救援活動が必要とされています。
胸が痛むことに、とてもひどい状況です。
昨日から雪が降り始めました。
政府は100万人分のテントを支給することを約束しました。
現在、ほとんどの人がテントを確保できていません。
想像してみて下さい。もしテントがあれば…
気温−15℃、10フィートの雪の中、生きのびることができるでしょう。
死、ただ死だけが彼らを待ち受けています。
私たちにできることといえば…
Hari pur とMuzaffarabadの病院にいる子どもたちを救うことだけです。
シャフィック
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●10/25 シャフィック(ライフILセンター)発信
お元気ですか?
今日、日本の友人からテントと衣服を受け取りました。適切なところに送るつもりです。
私はあの日、眠っていましたが家が揺れているのに気づき目がさめました。天井扇風機が電気なしで動き始めました。地震の音は、まるでヘリコプターが飛んでいるような音でした。それは、運命の日でした。みんな悲しくて泣いていました。私は、マイルストンのメンバーに電話をかけ始めました。Asimの家は完全に壊れました。Akmalの携帯は通じませんでした。ただありがたいことにAshar
と Hamid(Atif)と他の友人たちは無事でした。テレビのニュースでは、かなり強い地震であることを伝えていました。ただ被害状況は公表されなかったので、みんな心配になりました。
たくさんの人たちが亡くなりました。イスラマバードの被害は世界中に伝わりました。私は急遽マイルストーンのミーティングを行いました。マイルストーンのメンバーは、地震の被災者のために命をささげる覚悟ができていました。私たちには、資金がありませんでした。でも意思あるところに道は開けます。私たちは、1軒1軒毛布と食べ物を提供していただけないか尋ねてまわりました。夜までに私たちは、毛布と暖かい衣服と食べ物でトラックを一杯にしました。姉妹団体の一つが Bagh
AzadKashmir の近くにあるSesarという村から連絡して来ました。私たちは、Kashmir 方面へ出発しました。私たちは車いすをトラックに積んで、後ろに乗りました。マイルストンは、いつも福祉事業の先端で活動をする革新的な団体として知られています。Sheela
Buttでは壊滅した状況が当たり前のようになっていました。倒壊した家にいた犬は、子供の身体を食いちぎっていました。壊滅した村の一方では嵐のように雨が降っていました。私たちは、もうこのような危険な状況では家に帰れないかもしれないと考え始めていました。でも神様は私たちにもう少し、人生を与えてくれたようです。それで私たちは、雨の中自分たちの使命に向かって動き始めました。私たちは、食べ物と毛布を必要な人たちに配りましたが、雨や寒さをしのぐテントは持ってきていませんでした。みんな落胆していました。でも障害者が支援に来たのに気づいて驚いていました。
私たちは、壊れた家の下敷きになっている障害者たちを元気付けていました。地震が起きたときみんな家から走り出てきましたが、障害者の友人たちは生き埋めになっていました。誰も彼らを助けることができず、彼ら自身も脱出することができませんでした。多分、死ぬという貴重な瞬間を無駄にしたくなかったので、出て来ようとしなかったのでしょう。彼らは、生き延びてつらい生活を繰り返すよりも死んだ方がましだと思ったのかもしれません。あるお婆さんの息子もまた、壊れた家の下敷きになっていました。そして私にむかって「私の息子はあなたのように車いすは持っていない」と言いました。死んでしまったら車椅子は必要ないかもしれませんが、MuzaffarabadやBalakotや
Baghにいる地震の犠牲者たちが生きていくには必要なものです。
今や何万もの人々が障害をもっています。腕や脚を失ったり、多くの人が脊椎損傷になっています。こういった人たちを放っていてはならないし、障害があっても幸せに生きていけるよう手助けをしなくてはなりません。障害があることは別に変なことではなく、社会で特異な存在というわけではないし、自分たちの権利を知ることは基本的人権だということを伝える必要があります。
とても胸が痛む思いでLahoreに戻ってきました。途中、誰も言葉を発する人はいませんでした。助けを必要としている仲間たちのために、また戻ってくることを皆考えていました。
翌日、被災地に再び行くことを決め、まだ救助隊がたどりついていないというPattan
Kalan と Pattan Khurdという地域を目指すことになりました。まず、Abbottabadで毛布500枚と薬3500人分、ミルク800パック、数え切れないほどのラスクをトラックへ積みました。Pattan
Kalanへ向かう途中、Thundyaniから Pattan Khurd
に着きました。Muzaffarabadでは壊滅した状況が一目でわかりました。死体の匂いが漂い、いたるところで家屋が倒壊していました。子どもや高齢者、あらゆる人々が助けを求めて道端に列をなしていました。誰を最初に助けるべきか、誰もわからない状況でした。私たちは、若い人たちは自分たちでなんとかできるだろうと判断し、子どもと女性に物資を配ることにしました。しかし、ある女性は死んだ子どもを膝に抱き、「私よりもまずこの子に食べ物を」と言い、援助を拒みました。
家々は墓場と化し、みな家をなくし、打ちひしがれていました。軍隊は救援をいそいでいました。私たちは、彼らを直視することができませんでした。
今私たちは、障害をもった人たち向けのカウンセリングのためのプランを作成中です。私たちの本当の責任は、新たな障害者をエンパワメントするプログラムをおこなうことです。次に、今後の街の復旧作業をすすめる過程で、バリアフリー化をはかるよう政府に提案していくことです。
今後も報告を続けます。
シャフィック
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●10/13 21:00 シャフィック(ライフILセンター)発信
ラ・ホールで寄付を募り500人分の食料、10000人分の医薬品、150人分の衣料、55人分の毛布、500人分のミルクと保存食料が集まった支援物資をライフILセンターのメンバー9名とマイルストーンの5名はこれらの食料品、医薬品、中古衣料、毛布、暖かい肩掛け、子供用食料などを最も被害の大きかったDHEER KOTに届けてきました。DHEER KOT という村は12000フィート(約3700メートル)の高さにあり、そこに行くのに7時間かかりました。驚いたことに、その町の住人5500人は1人残らず死亡していたのです。その次の山に向かいました。そのときには豪雨が降り始め、非常に危険な状態でした。BAGH という地域では、わずか5000人が生き残り、その他のほとんどの人たちは死んでいました。ここではおそらく5000人の人たちが死亡したようです。そこでは、医薬品も無く、交通手段もないので、その町から出られず、多くのものが知的障害を持ち、食料もなかったのが死亡原因と見られます。その場所は高い山の上にあり、雨のためヘリコプターも到達できませんでした。我々は生存者を探しまわりました。しかし、多くの家は家族の墓場と化していました。わたしの側には倒壊した家があり、数匹の犬が人間の赤ん坊を食べていました。私は石を投げて犬を追い払いましたが、そのうち一匹が赤ん坊の腕を口にくわえて、走っていきました。
日本から障害者に対して支援を得られるのであれば……でも現地にはもはや障害者は存在せず、我々の仲間も死んでいます。そこにはもはや障害者はおりません。もし、テント、毛布、薬、この3点があればまだ生き延びられる人たちがいます。雨がよく降っているので水はいりません。私たちは、BHAD地区に住む3000名を支援するという目標を立てました。
私たちは品物を集めており、市民も協力してくれています。
私たちは今、最大の試練に直面していますが、ベストを尽くしています。
我々のこの第1歩が成功すれば、彼らは生き延びられるでしょう。それは私たちの人生にとっても大きな実績となるでしょう。しかし、雪が降り始めるので我々には一週間しか時間がなく考えている時間はありません。ここ4日間は寝ていません。私にはできないかも…。私のためにお祈り下さい。ありがとう。明日と明後日には品物を集めなければなりません。
私はとても疲れました。もう家に帰らないと…。きっとよく眠れることでしょう。
関心を持って頂いてありがとうございます。我々には何かができると信じています。
皆さんに神のご加護がありますように。
シャフィック
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